松栄堂のご紹介

菓子づくり百十数年

もちの里、一関市

 明治三十六年、松栄堂は菓子屋として、百年以上も昔に岩手県南の街「一関市・地主町」に生まれました。当時の地主町は藩政時代からの伝統の老舗街で、初代主馬蔵は「ここで開業すれば、何とかやれるだろう」と目をつけたのだと思います。

 さて、開業の地一関では、正月以外に節分や彼岸など季節の行事にも餅をついて食べる習わしがあります。更に結婚式や葬式など改まった席では「もち本膳」を振る舞う習慣があり、多い時では年間六十日以上も餅を食べる機会があります。

 こういった、地域の生活に根差した餅文化は、松栄堂の菓子づくりにも大きく影響し、田むらの梅やずんだもち、くるみゆべしなど、多くの餅菓子を生み出すきっかけとなりました。

始まりは、小さな駄菓子屋でした

初代の主馬蔵は、決めたらすぐに行動する人でしたが開業とその後しばらくの間は、やはり、人知れぬ苦労があったようです。その後、二代目の大助(仙台市の菓子店で菓子修行していた)が、婿入りしたのは大正六年十二月。

 創業時は「あめ玉」や「味噌パン」などが中心の駄菓子屋に近いお店でした。それが、大助の婿入りをきっかけに「さくら餅」や「上生製品」も売るようになり、段々と和菓子屋らしくなっていきました。もちろん、主馬蔵の代から他にはない品の良い菓子を、と努力をしてきましたが、腕の良い婿を迎えて、更に大きな期待をもち、新製品の開発に乗り出したようです。そして大助も、この期待に応え松栄堂の看板商品をと執念を燃やし、その一つの結晶が今も松栄堂の一番菓子である「田むらの梅」です。

田むらの梅の誕生

 大正末から昭和初期の頃。当時の一関藩の当主様から「一関に名物品がないから考えてほしい」との御意向を賜ったのがきっかけです。田村家といえば、明治維新後も一関のお殿様で通っていました。そのお殿様の御意向となれば藩命同然。

 主馬蔵と大助は日本全国へ出かけ研究を重ね、色々な試行錯誤を二年以上も続けて、やっと出来上がったのが梅の実と青紫蘇の葉と餅(求肥)を素材にした今の「田むらの梅」の原型です。

 お殿様は、考案したこの和菓子をお召し上がりになり「おお、これはいいな」とおっしゃったそうです。その時、お殿様が一関藩の初代藩主・田村建顕公が梅をこよなく愛し、和歌にも詠んでいるというお話をされました。これを聞いた主馬蔵が、お殿様に名づけ親になっていただき「田むらの梅」という名前をいただいたとのことです。

田むらの梅の購入はこちら

ごま摺り団子の開発

 昭和六十三年春、三代目主一と四代目眞利が次なる看板商品づくりにのりだしました。「普通は、団子の上に餡をぬりますが、それではありきたり、他に面白い形はないだろうか。」そしてある時、外ではなく中に入れてはどうかと、逆転の発想をひらめきました。団子の中からごま蜜が飛び出す今の形まで、約半年、試作を重ね、何とか自信が持てるまでになったそうです。

 さて、ここまできたら、あとはネーミング。寝ても覚めても、このことが頭を離れませんでした。いくら考えても名案が浮かばなかったとき、何気ない雑談の中からとびだした名前が「ごま摺り団子」。すり胡麻で蜜を作って入れた団子ですので、まさに文字通りのネーミングですが、高度成長期でどこもかしこも「ごますり」が流行っていた当時ならではの発想でした。

ごま摺り団子の購入はこちら

松のように栄える

 「松栄堂」という名前は、長寿と繁栄のシンボルである三界の松(岩手県旧川崎村)にあやかって、激動の時代を乗り越え、地元地域と共に末永い繁栄をという気持ちから名付けられました。戦争や度重なる災害の中でも、暖簾と菓子作りへのこだわりを守り続けた先人たちの苦労と努力の積み重ね、そして創業期から見守り支え続けてくださった地域の皆様がなくては、今の松栄堂はありえません。

 そして創業から百十一年を迎え、松栄堂では五代目店主・宏眞へとバトンが渡されました。これからも、「近きもの喜びて遠きもの来る」。近きもの、つまり地域の皆様が「おいしさ」で喜び食し、その風評を聞いて遠くのお客様にも来ていただけるように、より一層、菓子作りに励んで参ります。